正直に告白すると、私は掃除という行為があまり好きではない。特に、水回りの掃除は苦手だ。中でも、お風呂の排水溝は最も避けたい場所の一つだった。あの黒くてぬめぬめしたヘドロの塊を想像するだけで、気分が滅入る。だから、見て見ぬふりを続けていた。水の流れが少し悪くなっても、「まあ、まだ大丈夫だろう」と自分に言い聞かせ、臭いが微かに漂ってきても、気のせいだと思うようにしていた。しかし、限界は突然やってきた。ある日、シャワーを浴びていると、足元に溜まる水の量が明らかに増え、排水溝から逆流してくるような不快な臭いが鼻をついたのだ。もう無視することはできない。私は覚悟を決めた。ゴム手袋をはめ、マスクを着け、意を決して排水溝の蓋を開けた。そこに広がっていた光景は、想像を絶するものだった。黒光りする粘性の塊が、排水溝の入り口を覆い尽くしている。それは、私が長年怠ってきた「見て見ぬふり」の代償そのものだった。嫌悪感と後悔の念に苛まれながら、私は古い歯ブラシと割り箸を手に、ヘドロとの格闘を開始した。ぬるりとした感触、まとわりつくような臭い。それは決して快適な作業ではなかったが、不思議と心は凪いでいた。一つ一つの汚れを取り除くたびに、まるで自分の心の中に溜まっていた澱のようなものも、一緒に剥がれ落ちていくような感覚があった。髪の毛、石鹸カス、皮脂、そして名前も知らないような微生物たち。それらはすべて、日々の生活の中で、私自身が生み出してきたものだ。ヘドロは、私の生活の「影」の部分を凝縮したような存在なのかもしれない。そう思うと、ただ汚いものとして忌避するのではなく、向き合うべき対象として捉えられるようになった。時間をかけて丁寧にヘドロを取り除き、ブラシで擦り、最後に大量のお湯で洗い流す。排水溝が本来の姿を取り戻し、水がスムーズに流れていくのを見た時、私は深い安堵感とともに、ある種の清々しさを感じていた。この忌まわしいヘドロ掃除は、私に大切なことを教えてくれた。それは、日々の小さな汚れや問題から目を背けず、こまめに向き合うことの大切さだ。それは掃除に限らず、人間関係や仕事、自分自身の心の問題にも通じることなのかもしれない。あの日の経験以来、私は週に一度、排水溝を掃除するようになった。それはもはや苦痛な作業ではなく、自分自身の生活と心を見つめ直すための、ささやかな儀式のようなものになっている。