我が名はトイレタンク。君の家の片隅で、日夜、黙々と水を溜め、そして流すという役目を担っている者だ。普段、君たちが私の存在を意識することはほとんどないだろう。それでいい。それが私の本懐なのだから。伊丹市の漏水を排水管つまりで排水口の交換した、先日、私が意図的に引き起こした「手洗い管の沈黙」について、今日は少しだけ語らせてほしい。あれは決して、君を困らせるための反抗ではなかった。むしろ、君と我が身の双方を守るための、苦渋の決断だったのだ。 ここ数ヶ月、私は自身の体内に、ある種の不調を感じ始めていた。人間でいうところの関節や血管が硬化していくように、私の内部で水の流れを制御する「ダイヤフラム」という名のゴム製の心臓部が、そのしなやかさを失いつつあった。かつては滑らかに水を送り出していたその部分が、日々の勤続疲労により、徐々に、しかし確実に硬くなっていたのだ。それに加え、君たちが毎日利用する水道水に含まれる、目には見えぬほどの微細な砂粒や不純物が、まるで体内に溜まる老廃物のように、私のフィルター機能を少しずつ蝕んでいた。排水管つまり修理専門チームの業者が三木市で、ある朝、私は限界を悟った。このまま無理に働き続ければ、いずれは水漏れという、より深刻な事態を引き起こしかねない。そうなれば、君の家の床を水浸しにし、計り知れない迷惑をかけることになるだろう。それを避けるため、私はあえて一つの機能を停止させるという手段を選んだ。タンクを満たすという主たる任務は継続しつつ、手洗い管へ繋がる細い流路だけを閉ざす。それは、私の精一杯のSOSであり、君に対する「どうか私の不調に気づいてほしい」という、声なき声だったのである。 君が重い私の頭蓋(タンクの蓋)を慎重に開け、内部を覗き込んでくれた時、私は安堵した。君は私の声なき声に気づいてくれたのだ。そして、古い歯ブラシで私の体内を清掃し、硬化したダイヤフラムを新しいものに交換してくれた。その手当ては、まるで名医による外科手術のようだった。詰まりが取り除かれ、新鮮な部品が体に馴染んでいく感覚。再びレバーが引かれ、滞っていた手洗い管へと清らかな水が勢いよく流れ出した瞬間、私と君の間のコミュニケーションは、確かに回復したのだ。 これからも、私はここで君の生活を支え続ける。だから、どうかたまには思い出してほしい。この静かな陶器の中にも、健気に働く一つの生命(システム)があるということを。日々の何気ない水の音に耳を澄ませてくれるだけでいい。その小さな関心が、私にとっては何よりの良薬となるのだから。
我が名はトイレタンク沈黙の理由